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『トラ番記者嫌い』小山正明さんへ26歳の若造記者が決死の直談判…「いつまでも根に持って…なにが300勝投手や」返って来た意外な“答え”

2025年12月30日 10時30分

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野球殿堂入りの表彰であいさつする小山正明氏=2001年7月23日


◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」
 2025年の最終回は、今年4月18日に90歳で亡くなった大投手・小山正明氏へ《追悼》の思いを込めて書こうと思う。
 小山正明氏、1934年7月28日、兵庫県明石市に生まれる。兵庫県立高砂高校から53年、阪神タイガース(当時は大阪タイガース)に入団。73年に引退するまでタイガース―東京オリオンズ―大洋ホエールズで挙げた通算320勝は、金田正一氏、米田哲也氏に次ぐ日本プロ野球歴代3位の大記録である。
 筆者が初めて小山氏と出会ったのは82年のこと。81年オフ、中西太監督が辞任し、当時、2軍監督を務めていた安藤統男氏が第22代タイガース監督に就任した。その安藤政権で投手コーチを務めたのが小山氏だった。コーチングスタッフをご紹介しよう。
監督    安藤統男
投手コーチ 小山正明
打撃    横溝 桂
守備走塁  河野旭輝
バッテリー 柴田 猛
外野守備  島野育夫
トレーニング山本晴三、中山悌一
2軍監督  谷本 稔
 当時、筆者はトラ番3年目の26歳。先輩記者に「いいコーチ陣ですね」というと、こんな答えが返って来た。「ええコーチ陣やけど、難儀な人がまじっとる」。それが小山氏のことだった。
 「小山さんはマスコミ嫌い、というかトラ番記者嫌いなんや。前回、コーチをしたとき(74、75年)もほとんど記者とはしゃべらない。堅物なんよ」。なぜ、小山氏がトラ番嫌いになったのだろう。それは小山氏の現役時代まで遡る。
 62年、タイガースは2リーグ制になって以来、初のリーグ優勝を成し遂げた。この年、小山氏はセ・リーグ記録となる5試合連続完封を含むシーズン13完封。47イニング連続無失点(2006年に藤川球児氏が更新)などの大記録を樹立。27勝11敗、防御率1.66(リーグ2位)で「沢村賞」を獲得した。だが、記者投票で選出される「最高殊勲選手賞」は、25勝14敗、防御率1.20(リーグ1位)の2歳年下、村山実氏が選ばれた。
 「村山さんは親分肌で担当記者と食事に行ったりして仲が良かった。それに比べて小山さんは職人肌で…。この投票以降、小山さんの中に《野球も知らん素人が》というトラ番記者への感情が強くなったと思う」と先輩記者は振り返った。
 「それにタイガースには昔から《両雄並び立たず》の風潮があって、それが小山放出につながっていった」
 翌63年、14勝14敗、防御率3.59と不本意な成績で終わると、その年のオフには『小山放出か』の記事がスポーツ紙を賑わせた。いや、噂だけではなかった。
 主力打者を出してでも投手力を強化し、守りの野球を進めたい大毎オリオンズ(翌年、東京オリオンズに改称)が小山獲得に動き、主力打者の山内一弘選手との1対1の交換トレードが成立。12月26日に大阪・梅田の阪神電鉄本社で、両軍の首脳陣、小山、山内両選手同席で発表されたのである。これがプロ野球界で有名となった『世紀のトレード』である。
 それから20年近く経っている。まさか今でも記者としゃべらないことはないだろうと思った。トラ番記者と一切、口をきかない―わけではなかった。大好きな趣味の「釣り」の話をするときは楽しそうに話す。ところが、肝心の「野球」の話になると、何を質問しても答えは2つ。ニコニコ顔で「それは監督に聞いて」「う~ん、すこぶる順調」。
 完全にトラ番記者をバカにしていた。そして1シーズンこの2言で押し通したのである。しかも、コーチ就任のあいさつでいきなり選手たちに「トラ番記者とは何も話をするな!」と言い放ったという。
 あたまに来た! 300勝以上の大投手かなんか知らんけど、何様や思てんねん! 26歳の若造、怖いもの知らず。甲子園球場で行われた秋季練習のある日、ついに筆者は直談判に及んだのである。
 「ボクらが村山さんに投票したわけやないでしょう。村山さんに票をいれた先輩たちと口をきかんのは勝手やけど、ボクらには関係ないことやないですか。それをいつまでも根に持って…なにが300勝投手や。ボクらは小山さんから野球の勉強をしたいんです。投球術の何たるかを教えてほしいんです」
 このときは怒鳴られ、殴られてもいい―と思っていた。だが、意外にも小山さんは黙って聞いていた。そしてしばらくしてポツリとつぶやいた。
 「ほうか…」
 翌日から小山コーチの態度が変わった。トラ番が野球の質問をしてもちゃんと答えてくれるようになったのである。ただ、筆者のことを「タ~コ」と呼ぶようになった。「タコ」とは失礼やないですか!と文句をいうと「たどころは言いにくい。舌をかむ。縮めてタ~コや」「ほんなら、ボクも小山じぃ―と呼びますよ」。
 気がつけばいつしかトラ番記者たちはみな、小山コーチのことを親しみを込めて「小山じぃ」と呼ぶようになっていた。
 日本広しといえど、320勝投手の小山正明氏とキャッチボールをした記者は筆者1人だけではあるまいか。何年のことかは忘れた。ある日、甲子園球場で試合前の打撃練習が始まった。ベンチ前に立っているとグラウンドに出てきた小山じぃがいきなりグラブを放ってきた。
 「タ~コ、お前、高校で野球やってたんやろ? キャッチボールやろ。いまからバッティング投手やるから、ちょっとだけ」
 ベンチ前で小山投手のボールを受けた。気を遣って軽く投げてくれた。軽くてもシュルシュルと音を立てた回転のいいタマがグラブに収まるたびに「パーン」「パーン」と小気味よい音が響いた。
 「よっしゃ、ありがとう!」。キャッチボールは十数球ほどで終わった。なんだが興奮していた。そしてグラブを外そうとすると、あれっ? 取れない。ウソやろ? グラブを脇にはさみ、なんとか手を抜き出して驚いた。なんと人差し指と中指が3倍ぐらいに腫れあがり、付け根の部分が紫色にうっ血しているではないか。
 ボールを受けたときに痛みも何も感じなかったのに…。ただ、グラブの「いい音」に聞きほれていただけ。回転数? 切れ? これがプロ野球界屈指の大投手のボールなんだ―と改めて感じ入った。家に帰り昔から大の阪神ファンの親父に手を見せると―。「一生、その手を洗うな!」と本気で喜んでいた。
 小山正明氏は決して偏屈な堅物ではなかった。この欄で1度紹介した、トレードされたときの気持ちも「じぃ」と呼ぶようになってから聞いたお話。筆者が「球団を恨みました?」と尋ねると、「恨みはせん。ちょっと寂しかったけどな」と笑った。
 「オレはあの時、自分の投手寿命をあと3年―と決めていた。そのあとはアパート経営をする気やった。トレードは相手に求められて行くもの。胸を張って行ったよ」
 あと3年どころか、小山投手はオリオンズで9年、ホエールズで1年投げ、144勝(タイガースでは176勝)している。
 小山じぃ、お疲れさまでした。筆者も来年、70歳。いつか向こうでまたキャッチボールがしたいなぁ。
 皆様、よいお年を。
 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の69歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
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