巨人戦で16発 阪神相手に4打席連続…巨人・阪神お互いの“キラー”とは 記憶が飛んだホームランと記録に残ったホームラン
2026年8月16日 22時21分
真夏の花火大会のように8月11日から東京ドームで行われた巨人―阪神3連戦で、両軍合わせて12本のホームランが乱れ飛んだ。11日の18回戦、近本の2号ホーマーで幕を開けると、3番森下が2ホーマー。4番佐藤輝が9回に放った一発はなんと、右中間の広告看板「RENOSY」を直撃する《ビッグボードホームラン》(賞金100万円)。阪神では2021年9月26日の大山が「キリンビール」の広告に当てて以来6人目の快挙だ。
翌12日には森下1本、佐藤輝が2本。巨人の4番・ダルベックも負けじと2試合連発、阪神戦9本目の20号ホームラン。そして13日の20回戦では佐藤輝が3試合連続ホーマーを放てば、締めくくりは、今季このカード両軍合わせて40本目のホームランとなる阪神・坂本捕手の逆転6号2ラン。いやー、やはりホームランは《野球の華》である。
そこで今回の『虎カルテ』は阪神―巨人戦で生まれた《華》について書こうと思う。読者のみなさんに質問。阪神の選手の中で「巨人キラー」と呼ばれた打者―といえば誰を思い浮かべます?これは簡単。そう、田淵幸一選手。
記録的には広島69、巨人67、中日66、大洋64、ヤクルト54―と5球団まんべ
んなく打っている田淵選手だが、1973年の巨人戦でなんと16本塁打(広6、中日5、洋8、ヤ2)を放ち、「巨人キラー」の異名がついた。阪神入団5年目、27歳のときである。
んなく打っている田淵選手だが、1973年の巨人戦でなんと16本塁打(広6、中日5、洋8、ヤ2)を放ち、「巨人キラー」の異名がついた。阪神入団5年目、27歳のときである。
どれだけすごいかを見てみよう。4月24日の1回戦(後楽園)で巨人・新浦から1号ホーマーを放つと、翌日の2回戦では高橋一から2号。そして3回戦では関本、菅原2投手から3ホーマー。それだけではない。5月9日の4回戦(甲子園)でも高橋善から9、10、11号。10日の5回戦でも高橋一から12号を放ち、巨人戦5試合連続で10本のホームランをかっ飛ばしたのだ。
そんな田淵氏に「1973年の巨人戦16ホーマーの中で忘れられないホームランは?」と質問すると、田淵氏は即座に「16本目」と答えた。
16本目のホームランは10月10日、観衆5万人、超満員の後楽園球場で行われた24回戦で飛び出した。残り試合、阪神は6、巨人は5。2位の阪神はゲーム差「1」で後楽園決戦に臨んだ。デーゲームの試合はテレビ中継され、放送席では阪神OBの村山実氏が解説を務めた。
阪神の先発は巨人戦6勝3敗と相性のいい上田。試合は巨人がその上田を攻め1回、高田の二塁打を足場に長嶋、末次のタイムリーで2点を先制。3回に1点を加え、5回にも長嶋、末次のタイムリーで計5点。これに対し阪神は2回、先頭の4番田淵が巨人の先発・高橋一から左翼へ35号ホームラン。
ドラマは1-5と巨人4点リードで迎えた6回に起こった。巨人はこの回、高橋一―吉田のバッテリーから倉田―森に代えて逃げ切り態勢をとった。だが、阪神も粘る。7番・後藤のホームランで1点を返すと、8番・望月、9番・代打桑野、1番・藤田平の連続ヒットで無死満塁のチャンスを作った。
だが、2番・中村勝、3番・遠井が連続三振。2死満塁となり打席に田淵が入った。するとここで村山氏が絶妙の解説だ。
「田淵を歩かせて1点をあげてもいいんじゃないですかね。次の川藤と勝負するという手もあります」。5番の先発はカークランドだったが、途中から川藤に代わっていたのだ。だが、巨人バッテリーは田淵と勝負した。
「ホームランなんて狙ってないよ。倉田をどう打つかだけを考えていた。遠井さんがフォークボールで空振り三振になっていたので、そのフォークを待った」。2ボール1ストライクからの4球目、狙い通りのフォークボールを捉えると、打球は高々と左翼へ舞い上がった。田淵特有の長い滞空時間。左翼の高田が懸命にジャンプしたが、打球は最前列に飛び込んだ。
「プロに入って初めて『入ってくれ!』と祈ったよ。でも、入ったあとの記憶がないんだ。頭の中が真っ白になり、ふわふわと雲の上を走っているような気分だった。ハッと我に返ったのは三塁ベースのところで長嶋さんから『よく打ったなぁ』と声を掛けられたときなんだ」。何度もバンザイをしながらベースを一周した田淵選手なのに、記憶が飛んでいたとは…。テレビを見ていた当時17歳だった筆者が驚いたのは、三塁を回った田淵選手にスタンドから飛び降りたファンの男性が飛びつき一緒にホームインしたこと。
「あれはボクもびっくりした。でも、当時はけっこうあったんだ。甲子園では大漁旗を持ったオッサンと一緒に走ったこともあったよ」と田淵氏は懐かしそうに笑った。この田淵の16本目のホームランで阪神は逆転勝ち。勝率・529とし、巨人に「1厘差」をつけて首位に立ったのである。「首位」に立った阪神にふりかかるこの後の《昭和48年の悲劇》については、また日を改めて書くことにしよう。
さて、「巨人キラー」が田淵選手なら、「阪神キラー」は? そりゃぁ、世界の本塁打王、王貞治選手でしょう―と思いきや、通算868本塁打を放った王選手だが、その内訳をみると広島196、中日184、ヤクルト171、大洋165で阪神戦が152本と一番少ないのである。シーズン55本塁打を放った1964年でもヤクルト17、大洋13、阪神9、中日9、広島7。だが、阪神戦で放った9本の中には「4打席連続本塁打」の大記録が含まれている。王さん24歳のときだ。
5月3日、ゴールデンウイーク真っただ中、後楽園球場には《伝統の一戦》を見ようと4万人の大観衆が詰めかけた。阪神の先発は太田、巨人は高橋明。いきなり王のバットがさく裂した。1回に柴田を塁に置いて14号2ランで先制。4回には再び太田から、6回には3番手の若生からソロホーマーを放ち、7回に4打席目が回ってきた。
この時点でスコアは6-0。一方的な展開に両軍の応援団も王選手の4打席連発が出るか否か、固唾をのんで見守っていた。この場面に阪神の4番手投手としてマウンドに上がったのが本間だった。以前、この『虎カルテ』で、ダブルヘッダーが多かった昭和39年シーズンを取り上げたとき、《阪神優勝の救世主》と言われたあの本間勝投手である。
「それまでの3ホーマーはブルペンで見ていたよ。4本目なんて打たれると思ってなかった。長嶋さんには結構打たれたけれど、ワンちゃんの相性はよかったんだ」
本間はタイガースに8年在籍し、長嶋には打率・435と打たれていたが、王は
・149と抑えていた。「さすがにもう打たんやろ。抑えてくるわ」と仲間たちに軽くこう宣言してマウンドに上がったという。
・149と抑えていた。「さすがにもう打たんやろ。抑えてくるわ」と仲間たちに軽くこう宣言してマウンドに上がったという。
「気合が入っているなぁ―とマウンドからでも分かった。でも、いつも通りに投げれば大丈夫と自分に言い聞かせた。ワンちゃんは1球目の変化球は打って来ない。まず、変化球で攻めたあとにストレートで…」
2ボール1ストライクからの4球目。低めを狙ったストレートが甘く浮いた
。「本間さんはストレートが速い。だから振り回すのではなく、コンパクトにバットに当てにいった」。快音を発した王の打球は右中間スタンドに突き刺さった。プロ野球史上初(当時)の1試合4打席連続本塁打、すべて右翼へのホームランだった。
。「本間さんはストレートが速い。だから振り回すのではなく、コンパクトにバットに当てにいった」。快音を発した王の打球は右中間スタンドに突き刺さった。プロ野球史上初(当時)の1試合4打席連続本塁打、すべて右翼へのホームランだった。
「初めてワンちゃんに打たれたホームラン。見事な当たりだった。まったく悔いてなんかいないよ。むしろボクの宝物。みなさんの記憶に残るホームランを打たれたんだから」と本間氏は87歳となったいまも誇りに思っている。
そしてこの2日後の5月5日、後楽園球場での巨人―広島戦で広島ベンチは内外野手を極端に右寄りに守らせる《王シフト》を初めて敷いたのは有名なお話である。
《記憶が飛んだホームラン》と《記憶に残ったホームラン》。どちらもなんと美しい華であろう…なーんて呑気なことを書いていたら、藤川阪神は敵地広島で危うく3連敗を喫するところ。3戦目は8-1の快勝? いや、野球は怖い。油断大敵!!
▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の70歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
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