阪神“ドラ1”立石の故障で考える…新人合同自主トレ誕生の経緯と課題 あるOB「1軍で潰れるより肉離れの方がまし」
2026年2月1日 11時42分
2月1日、プロ野球12球団が一斉に春季キャンプに突入。球団史上初の「連覇」を狙う藤川阪神も沖縄(1軍は宜野座、2軍は具志川)でキャンプインした。
残念なのは超大物ルーキーと騒がれていたドラフト1位・立石正広内野手(22歳=創価大)が右脚の肉離れで2軍スタートとなったこと。1月17日、甲子園球場で行われていた「新人合同自主トレ」でベースランニング中に右脚に違和感を覚えてリタイア。19日に「右脚肉離れ」と診断された。
このアクシデントを藤川球児監督は《大きな事件》と捉えた。そしてすぐさま行動を起こした。1月21日に東京都内で行われた日本プロ野球選手会とNPB(日本野球機構)との事務折衝の前日、選手会の森忠仁事務局へ電話で「新人合同自主トレ」の制度見直しを求めたのである。
「(新人合同自主トレは)われわれが指導できない間で、責任者がいない状態。何年かに1度は必ずそうした選手がどの球団にも出てくる。だから制度を見直す必要があるのでは…と求めたのです」
藤川監督の申し出について森事務局長も「考える時期であるのかな―と思う。検討する余地がある」と話した。今後、どういった展開になるのかは未定だが、ここで一度「新人合同自主トレ」がどういう経緯で誕生したか―に触れておこう。
まずはプロ野球「野球協約」から。プロ野球界には選手契約などの手続きを定めた協約(憲法・基本ルール)がある。その中の第173条には(ポスト・シーズン)としてこう記されている。
『毎年12月1日から翌年1月31日までの期間、球団や選手は如何なる試合、合同練習、野球指導も行ってはならない』
とはいえ、昔(昭和時代)はそんな規定はあってないようなもの。1月になると選手たちはホーム球場で自主トレを始め、さすがにユニホーム姿ではなくジャージを着ての練習だが、各コーチ陣も平気で指導していた。それが「協約違反だ!」と言うようになったのは、1985年に日本プロ野球選手会が《労働組合》として認定されてから。
選手会側が「この期間は球団や会社に縛られない選手にとっては自由な期間。球団主導の練習はもちろん、選手への指導は厳禁。ルールは守るべきだ」と主張。選手会、NPB、各球団が何度も話し合い、オフシーズンの明確化を実現した。
このときは選手会も球団側もにらみ合った。「球団の言いなりにはならん!」という選手会。「それなら球団施設は一切使わせない!」と球団側も強硬姿勢。選手指導についても「選手寮の部屋からコーチが双眼鏡で練習を見ていた」というだけで大騒ぎになった。
このとき《例外》として認められたのが新人選手への指導だった。新人はプロでどんな練習をすればいいか分からず、いきなりキャンプから―では戸惑いも多い。そこで各球団が「合同自主トレ」として新人選手を招集。選手会もトレーニングコーチのみの指導を認めた。
今回の立石選手の肉離れもそんな状況下で起こったアクシデント。藤川監督のいう制度見直し―とは、トレーニングコーチだけに任せるのではなく、監督や全コーチ、球団が責任をもって指導すべきであるということなのだろう。
だが、そうなれば次に2年目や3年目の選手、いや5年目以下の選手はどうなのか?という話になり、最終的には野球協約第173条が必要なのか否か―の問題に発展していく。第173条がその時代に沿うものかどうか―の議論はこれまでも何度も行われてきた。
一番有名なのが中日・落合博満GM騒動のときだろう。2014年1月、当時、中日ドラゴンズのGMを務めていた落合博満氏が、室内練習場で自主トレをしていた松井佑介外野手に100分間に渡って指導した。これが「第173条」に抵触するのではないか―とマスコミが騒いだ。
「オレはユニホームを着ていない。(協約にある指導)それは監督、コーチのこと。協約は全部確認している」と落合GM。そして球団も「わざわざ集めたのではなく、選手が自由意志で聞いている。だから協約違反ではない」と主張。コミッショナーも「問題なし」とした。だが、課題は残った。ではユニホームを着ていないフロント組ならば指導しても問題ないのか―という声が起こったのだ。
「新人の合同自主トレは各球団の判断でやっている。別にやってもやらんでもええ。みんなで決めた話やないからな。昔、新人はキャンプでも《お客さん》扱いでほとんど練習せんかった。昼頃には宿舎に帰ってたよ」とは阪神・岡田彰布球団顧問の回想。
本当に新人選手はお客さん扱いだったのか。岡田顧問がルーキーだった1980年(昭和55年)の取材ノートを開いてみた。当時、筆者もトラ番1年目だった。
【1月4日】岡田、雨中の始動。
岡田が大阪城公園で練習を開始したがあいにくの雨。集まった報道陣は「こんな天気だから明日にすれば?」と勧めたが岡田は首を振った。
岡田が大阪城公園で練習を開始したがあいにくの雨。集まった報道陣は「こんな天気だから明日にすれば?」と勧めたが岡田は首を振った。
「年賀状が届いたんです。名前も書かず、ただ阪神ファンより―って。そんなハガキがいっぱい。それをみたら、何が何でもやらな!という気持ちなった。4日からやると決めていた。だから雨が降ろうが槍が降ろうがやりますよ」
この日のために用意したトレーニングウエアも顔も雨でびしょびしょ。それでも岡田は平気。「初めが大切。最初から躓きたくない。スタートのタイミングを外すと、すべてが狂いそうな気がするし…」という。
夢は家族で行った三朝温泉旅行で見た「初打席初ホームラン」。ホンマにそんな都合のええ夢みたんか?と突っ込んだ―とメモにある。
【1月9日】選手寮「虎風荘」入り。
【1月10日】甲子園球場で合同練習開始。
ブレイザー監督の姿はない。阪神は2月上旬から米国アリゾナ州テンピで17年ぶりの海外キャンプを行うため、合同練習は「自主トレ」ではなく「甲子園キャンプ」と呼ばれた。とはいえこの10日の段階では江本や小林らの主力選手や和歌山県勝浦で自主トレに入った掛布たちも参加していない。
ブレイザー監督の姿はない。阪神は2月上旬から米国アリゾナ州テンピで17年ぶりの海外キャンプを行うため、合同練習は「自主トレ」ではなく「甲子園キャンプ」と呼ばれた。とはいえこの10日の段階では江本や小林らの主力選手や和歌山県勝浦で自主トレに入った掛布たちも参加していない。
というわけで注目は期待の新人・岡田に集まった。ランニング、キャッチボール、トスバッティングが終わると、中川トレーニングコーチの指揮で本格的な走り込み。1周500メートルのグラウンドを12周。そのあと縄跳び300回に甲子園名物アルプススタンド登り。
「普通跳び100回、二重跳び100回、最後に三重跳び100回やで、そんなん跳べるかいな!見たら誰も跳べてへん。そらそうや」とは岡田顧問の回想である。
このあと岡田は1軍の海外キャンプに参加。ブレイザー監督はルーキーの岡田を全く使う気がなく、一塁を守らせたり外野の守備につかせたり。二塁は新外国人選手のヒルトンが守った。結局、岡田の起用法でマスコミが騒いで世論に火がつき、それが原因で5月に《監督解任》となるのである。
岡田顧問の「新人はお客さん扱い」という言葉は、当時のブレイザー監督の自分への期待の薄さをそう感じ取ったからだろう。あるOBが立石選手の2軍スタートをこう言った。
「1軍で期待とプレッシャーでつぶれるより、肉離れの方がまし。2軍でじっくり体をつくり、はい上がってくる方が彼のためになる。プロの生活は始まったばかりなんやから」
その通りである。
▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の69歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
関連キーワード
おすすめ情報


