【竜キャンプ今昔物語(2)】下痢に極寒、夜遊び…「練習にならん!」1963年の『別府キャンプ』名古屋へ“寝台列車”で強行撤退
2026年2月10日 05時45分
球団創設90周年を迎えた中日の春季キャンプが始まった。1946年の鹿児島・鴨池に始まり、現在の沖縄・北谷、読谷まで中日のキャンプ地は20カ所以上。そこには、その年々、その土地土地の物語がある。節目の年にいま一度、先輩たちの汗と涙がしみ込んだ”聖地”を訪問。竜戦士たちの球春の足跡を4回に分けてたどる。
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鹿児島県湯之元町(現同県日置市)、大分県別府市、和歌山県那智勝浦町、松山市と1950年代後半から60年代にかけて中日がキャンプ地に選んだのは日本有数の温泉地。他球団も鹿児島県指宿市、長崎県島原市、静岡県伊東市などでキャンプを行っており、この頃のキャンプは「温泉」がトレンドだったのかもしれない。
年々プロ野球人気が高まり、誘致合戦もあったはずだ。選手にとっても練習で疲れた体を癒やすにはもってこいだっただろう。しかし、「すべて良し」とはいかない。湯之元(58、59年)は水が合わなかったのか、下痢の症状を訴える選手が続出。松山(65~68年)では選手が夜な夜なネオン街に繰り出し、管理に球団も苦労したようだ。
そして、当時プロ8年目の外野手、法元英明が「温泉地といっても球場は山の中腹にあり、とにかく寒い。そのうえ、あの年は天気も悪かった」と振り返るのが63年の別府キャンプだ。
「朝になると薄く氷が張ったり、霜柱が立つ。晴れれば、それが溶けてグラウンドはグチョグチョ。監督(杉浦清)も『これじゃあ、練習にならん』となってね」
朝から雷を伴った雨に見舞われたのは2月11日だった。数日はグラウンドの使用が無理と判断した杉浦監督は急きょ予定を変更し、別府キャンプの打ち上げを決定。マネジャーの足木敏郎らが大急ぎで寝台車計60席分を確保し、この日のうちに全員が特急、急行に分かれ名古屋に引き揚げた。
翌12日に名古屋に戻ったナインは休む間もなくその日から中日球場で4日間練習。16日に2次キャンプ地の兵庫県明石市に場所を移した。
4年続いた別府キャンプはこの年限り。翌64年は南紀勝浦へ。製紙工場の軟式野球用グラウンドを使用したが、右翼が70メートルほどしかなく、後方は材木置き場。打球が次々と積み上げた材木の隙間に入り込み、ボールがいくつあっても足りない。
調整不足もあったのか開幕は1勝7敗でスタート。4月、5月も負け越し、杉浦監督は途中休養した。その後もチーム状況は好転せず、2リーグ分立以降では球団初の最下位に終わったのがこの年だった。 =敬称略=
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