日本ラグビー界の象徴でもあった平尾誠二さんが、2016年10月20日に53歳の若さで他界してから10年が過ぎた。その教えは今でも生き続けている。神戸製鋼ラグビー部に在籍し、日本にラグビーを伝えた田中銀之助の曾孫にあたる元慶応大監督の田中真一さん(60)は11月にある東京・小金井市長選に挑戦する。1995年の阪神・淡路大震災の経験、恩人の言葉が背中を押した。平尾さんに関わった人々を紹介する連載の第1回。
田中真一さんインタビュー
11.15小金井市長選へ
元慶応ラグビー部監督
地図で見ると、東京のほぼ中央に「小金井市」はある。
中央線に乗れば新宿までは25分。
春に咲く小金井公園の桜は名勝に指定され、かつては明治天皇が見物に訪れたほど美しかった。
武蔵小金井駅からほど近い事務所を訪れたのは、10月の中旬。
そこにいた田中さんは、日本選手権7連覇という黄金時代を築いた1990年代に神戸製鋼ラグビー部に在籍。引退後は慶応義塾の高校、大学で監督を務めた人だ。
その系譜をたどれば、曽祖父の田中銀之助はE.Bクラークとともに日本にラグビーを伝えた人として知られ、日本ラグビー協会の初代名誉会長になっている。
神戸の街は、田中さんの原点でもある。
阪神・淡路大震災の記憶。
もうすぐ32年が過ぎようとしている今でも、瓦礫の中に身をかがめ、暗闇の中で必死に腕を伸ばした先に感じた老婦の温もりは忘れることはない。
そして、平尾さんから学んだこと、その言葉は脳裏に深く刻まれている。
60歳になっても挑戦を止めないのは、震災の記憶と平尾さんから教わったことがあるからー。
「もうすぐ命日ですね」
そう語りかけると、田中さんは、若かりし頃の出来事を思い出していた。
「あれはね、創造的破壊だったんだよ。あの人と出会っていなければ、ラグビーの本当の面白さは分からなかったかも知れない。僕はね、平尾さんから学んだんです」
年号が昭和から平成と改められてすぐ、1989年1月10日の全国社会人大会決勝。
神戸製鋼は23-9で東芝府中を破り、創部60年目にして悲願の初優勝をつかんだ。
日本選手権でも大東文化大を退けて日本一を達成。
田中さんが慶応大から神戸製鋼に入社したのは、その年の春だった。
ラグビー界のスーパースターの一挙手一投足を、目を見開いて見ていた。
今までの自分を超えること〜
「おのずと日本一になれる」
ミーティングの席で、平尾さんが全部員の前で訴えたことはよく覚えている。
「僕が入部をしたのは、V2を目指すシーズン。平尾さんがみんなに話したことは衝撃的でした。『去年やってきたこと。日本一の成功体験を全て捨てろ。挑戦するのは去年の自分。一人ひとりが去年の自分を超えれば自ずと結果はついてくる。創造的破壊や!!』。そう伝えたのです」
その頃の神戸製鋼ラグビー部は監督制をとっていなかった。
平尾さんや、林敏之らといった選手たちがリーダーとなり、チームを作る異例の体制だった。
「まだ24、25歳の平尾さんが常に先を見据え、新しいことを考えておられた」
それは練習や試合でも窺い知ることができる。
当時は基本に忠実なことが美徳とされ、パスは定まったフォームから「人」の胸元へ送ることが良いとされていた。
その概念をも壊した。
「『パスは人に放るんじゃない。スペースに放るんや』。それが平尾さんの考えでした。人(味方)ではなく、空いているスペースにボールを飛ばして、そこに味方が走り込んできたら抜ける。今までのラグビーとは全く違う、クリエイティブな発想だったんです。それまで僕がやってきたラグビーはプロセス重視、平尾さんは結果重視でした。『make a space スペースを作るんや』ということは常におっしゃられていました」
スポーツにはルールがあり、同じ条件の中でどうクリエイティブな発想を抱くかで戦い方は変わる。
1990年度の全国社会人大会決勝は終了間際、WTBイアン・ウィリアムスの伝説の逆転トライで18-16で三洋電機との大接戦を制してV3を達成。
その翌シーズンの出来事は、特に印象に残っている。
味方キッカーに「外せ」
ラグビーの可能性を教わった
「接戦の試合で残り5分くらいに敵陣でペナルティーゴール(PG)をもらったんです。例えPGを決めても、その後相手に1トライ1ゴールを許せば負ける状況でした。平尾さんはキッカーの冨岡(剛)に『外せ』と言ったそうです。『なるべく時間をかけて蹴って(PGを)外せ』と」
少しでも点差を広げたい。
グラウンドで戦う選手からすれば、それが自然な思いだろう。
「平尾さんはタイムマネジメントとともにエリアマネジメントをしていました。PGを決めれば次のキックオフはハーフェーライン(中央)からになる。外せば敵陣深くからのドロップキックからのリスタート。中央からのキックオフで自陣に攻め込まれて1トライ1ゴールを許せば負ける。それなら、点差はそのままでも相手陣にいた方がいい。時間とスコア、自分たちが戦うエリアと向こうのメンタル。全てを考えた上で『外せ』という指示を冨岡君に出したんです」
若かりし頃、楕円球を追い続けていた記憶をたどりながら「あの人にラグビーの楽しさと、可能性を教わった。神戸で過ごした経験が、歩んできた人生になったと思う」と語った。
神戸製鋼ラグビー部を退部してからは神戸を本拠とする六甲クラブで、クラブチーム日本一を経験。
慶応義塾高校、慶応義塾大学ラグビー部監督を歴任し当時、参議院議員だった武見敬三の下で政治を学んだ。
前首相の石破茂の秘書を経て、小金井市長選(11月8日告示、15日投開票)への挑戦を決めたのは、平尾さんや神戸の仲間と過ごした経験が、今も胸に深く刻まれているからだ。
大震災で感じた指先の温もり
小金井市長選で掲げる公約「市民を守る!」
今回の選挙を前に9つの政策を掲げる。
その中にある「防災拠点・災害司令塔の新庁舎の早期建設と安全安心のまちへのインフラの整備」を訴えるのは、経験に基づいた理由がある。
あれは、神戸製鋼が日本選手権7連覇の偉業を達成した2日後のことだった。
1995年1月17日、早朝。
阪神・淡路大震災が発生し、神戸の街は甚大な被害を受けた。
「自分の生き方が大きく変わった出来事でした」
そう言葉を振り絞り、田中さんは当時のことを教えてくれた。
「体が宙に浮くほどの大きな縦揺れで目を覚まし、外に出たら隣の家が潰れていました。だるま落としのように、1階部分が崩壊し、2階に押しつぶされていたんです。助けを求める声を聞いて2階の床を外し、潰れた1階部分へ倒れた壁と家具の隙間に自分の体を入れて必死に腕を伸ばしました。暗くて何も見えなかったけれど、指先に細い足があるのを感じたんです。まだ温かかった。
生きていました。足を引っ張り出し、お婆ちゃんを助けることができた。無我夢中の出来事でした。ただ、同じ家に住んでいたお嫁さんは亡くなっていました。ご主人と一緒にご遺体を安置所までお運びをした時に見た光景は、まるで地獄絵図のようでした。近くでは高校生も亡くなった。その時に『自分は生かされている。だから、この命は大切にしないといけない』という思いが強まりました」
慶応大ラグビー部監督を退任後の2013年には参議院議員選挙に自民党公認で立候補。東日本大震災から復興を目指している最中だったこともあり、大震災への備えは強く意識する。
「震災が起きた時に、どこに市民が頼るか? 不安な心の拠り所、それは市民を守る役所なんです。図らずも神戸市も新庁舎は大丈夫でしたが、第2庁舎は8階建ての6階が潰れました。市役所が一部機能ができなくなったのです。小金井市の庁舎は古く、昔の建築基準法で建てられています。街の図面、資料が失われ、市長と物事を決める議員が集う場所がなくなれば復興は遅れます。
土地直下型地震が30年以内に来る可能性が高いというデータが出ていることからも市民の生命と財産を守る防災拠点、災害発生時の司令塔として新庁舎の建設とインフラ整備は進めないといけないと考えます。阪神・淡路大震災の経験は、今の自分を動かす大きなきっかけになっています」
今でこそ日本ラグビーは世界の強豪を倒すまでになったが、平尾さんはまだ弱小だった日本代表を率いて世界と戦う基盤を築いた。
さらには2019年ラグビーW杯招致にも関わっている。
偶然にも、田中さんの元へも日本協会から2035年ラグビーW杯招致に向けた仕事の打診があったという。
「新しいものを築くには成功体験を捨て『創造的に破壊せよ』ー。それが平尾さんの言葉でした。私は人と街を、健康で元気にしたい。次代を担う子どもたちへ、元気にスポーツを楽しめる環境を整える。平尾さんに出会えて良かった」
平尾さんがこの世を去ってから、10年もの歳月が流れた。
記憶は薄れることはない。
震災の経験と、その教えは今でも生き続けている。




