【内田雅也の広角追球】被爆者としての使命 苦しみ、悲しみを語り始めた晩年――張本勲さんをしのぶ

[ 2026年9月10日 15:00 ]

自身の被爆体験を語った張本勲さん(2009年8月5日、東京の後楽園飯店にて)
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 手紙やはがきを出すと、すぐに電話がかかってきた。最近も張本さんは「元気元気。まだまだ大丈夫よ」と明るく話していた。突然の訃報に驚いている。

 友人・知人が若くして亡くなるなど、原爆症が出ないかと長年、健康診断におびえていたのは確かだ。死の恐怖と闘いながら「よくぞ、ここまで生き延びた」と話していた。

 張本さんが被爆者であることを公表したのは2006年だった。テレビで原爆がどこに落ちたのかも知らない若者を見て「これではいかん」と自身の経験を語り始めた。当時66歳。後世に伝える使命感があった。

 原爆投下時は5歳。広島市段原新町(今の南区段原)の自宅から遊びに行こうと玄関先に出ると「まさにピカッドンッときた」。母・順分(すんふん)さんが覆いかぶさってくれた。白いチョゴリを着ていた母の背にガラス片が刺さり、血がにじんでいた。

 被爆者健康手帳(原爆手帳)には「爆心地から2・3キロ」とあった。小高い標高70メートルの比治山の陰で放射能、熱線の直射を免れたのだった。
 だが、山の頂上で勤労奉仕していた6歳上の姉・点子さんが帰ってこない。何日かして赤十字の担架で運ばれてきた。全身やけどでかすれた声で「熱いよ」「痛いよ」とうめいている。「のどが渇いた」というのでブドウを口に入れてあげた。「勲ちゃん、ありがとう」と言ってくれた。医者も薬もなく、数日後、亡くなった。色が白く背の高い、自慢の姉だった。

 後に浪商高(現大体大浪商高)の校内弁論大会で原爆体験と姉の死を語り、優勝した。タイトルは「ケロイド乙女」だった。

 被爆体験を公表した20年前、新聞の取材で「8月6日と9日を暦から外したい」と答えると、長崎に暮らす小学生の少女から「それは逆ではないでしょうか」と手紙をもらった。「ヒロシマとナガサキを伝えていくために必要だと思います」
 少女の手紙から2年後の08年8月6日、「怖くて入れなかった」という広島平和記念資料館にも足を踏み入れた。悲惨な写真や資料が並んでいた。少女に「足が震えて、怖かったけど行ってきたよ」と入場券の半券を同封して返事を書いた。

 09年には本紙インタビューで高校球児たち、特に「ヒロシマ代表」の如水館高に向けてエールを送った。「平和だから、健康だから野球ができる。生きる喜びを見せてくれ」

 デリケートなテーマで記事掲載に難色を示すかと思えた日本高校野球連盟(高野連)は「人間の根源に関わるお話。ありがたい」と快諾を得た。

 16年5月、オバマ大統領が広島を訪問した。現職の米国大統領が初めて平和記念公園を訪れた。「アメリカを許しませんよ。しかしトップが来てくれた。被爆者の心の傷が少しはいえたかもしれん」と話していた。

 一昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受けた。「良かった」と喜んでいた。「でもね。もっと早くほしかった。亡くなった先人たちに聞かせてあげたかった」

 今もロシアのウクライナ侵攻や中東紛争など各地で紛争が絶えない。「何の罪もない子どもたちが死んでいく。人間のすることじゃない」。平和な世の中を望んで、天国へと旅立っていった。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。85年入社。2003年から編集委員として主にコラムを執筆。07年開始の『内田雅也の追球』は20年目を迎えている。 

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