海老名香葉子さん 4人の子供が見送った イブが命日に正蔵「まるで落語のオチ」 お別れの式に1000人

[ 2026年1月10日 05:30 ]

海老名香葉子さんとの思い出を語る(左から)峰竜太、林家正蔵、林家三平(撮影・須田 麻祐子)
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 老衰のため昨年12月24日に亡くなった初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子さん(享年92)のお別れの式が9日、東京・上野の寛永寺輪王殿第一会場で営まれ、親族や生前親交のあった著名人ら約1000人が出席した。

 喪主を務めた長男の林家正蔵(63)は「クリスマスイブが命日なんてしゃれたことするな~。まるで落語のオチだよ。うまいことやりやがったな、おふくろ!そんなおふくろの子供で俺は幸せです」と気丈に母をしのんだ。

 祭壇は香葉子さんの生前の意向をくみ、450輪のスイートピーと数千本の白い花で飾られた。香葉子さんが自ら選んだという、7、8年前に疎開先だった石川県穴水町の同窓会で撮られた1枚が遺影に使われ、法名は「明和院釋尼音嘉(みょうわいんしゃくにおんか)」。生涯求めた平和への思いが込められた「明和」、「音」は空襲で亡くなった父の音吉さん、「嘉」は自身の本名嘉代子から。次男の林家三平(55)が中心となって、家族で法名を決定したという。三平は「東京大空襲で亡くなった家族の元へ行くんだね。大好きだったお父さんのそばに行くんだね。母さんいってらっしゃい!」と涙ながらに母に別れを告げた。会場には長女のみどり(72)、次女の泰葉(64)もそろい、4人の子供全員で見送った。

 波瀾(はらん)万丈の人生。1945年の東京大空襲では両親を含む家族6人を亡くした。戦後は戦災孤児として、地獄の苦しみを味わった。その経験から2005年には上野恩賜公園に平和の母子像「時忘れじの塔」を私費で建立。この日の会場である寛永寺にも同じく自ら建立した慰霊碑がある。生涯をかけて平和の尊さを訴え続けた。

 80年に肝臓がんで三平さんを亡くした後は一門の「おかみさん」として奮闘し、大所帯の一門を支えた。正蔵は「小言名人。ちゃんと胸に届く。優しいから言えるんです」と人柄をしのんだ。一方、香葉子さんから可愛がられた三平は「本当に日本一のおふくろでした!胸を張って言えます」と絶叫しながら感謝を伝えた。

 「泣いて 笑って がんばって」。正蔵の喪主あいさつにも登場した香葉子さんの座右の銘だ。平和を願い、笑いを愛した香葉子さんの遺志はこれからも受け継がれていく。

 ≪ちばてつや氏が弔辞「本当に波瀾万丈の凄い人生でしたね」≫弔辞は漫画家のちばてつや氏(86、写真)が読み上げた。香葉子さんが毎年3月9日に開催してきた東京大空襲の惨禍を語り継ぐ「時忘れじの集い」にも毎年のように参加。親交を重ねてきた。「90歳になったばかりの頃はあんなにお元気だったのに、突然のお別れびっくりしています」と心中を吐露した。

 2人は一昨年に中国からの引き揚げ体験をつづった「大大陸に陽は落ちて」を出版。「寝る間を惜しんでの大活躍でした。出版が思いのほか大変だったので、お姉ちゃん燃え尽きてしまったのかね。出版の後、体力が落ちて、みんな心配していた」と思いやった。

 ちば氏は中国・満州からの引き揚げ、香葉子さんは東京大空襲と戦争に人生を翻弄(ほんろう)されてきた。「香葉子姉ちゃん、あなたは本当に波瀾万丈の凄い人生でしたね」とねぎらい「あなたが育てたたくさんのお弟子さんは日本中で頑張っていますよ。安心してゆっくり心置きなくお眠りください」と語りかけた。

 ≪たい平「おかみさんがいなかったら林家たい平はいない」≫式には多くの著名人も参列した。三平さんの孫弟子で、海老名家で修業した林家たい平(61)は黒いスーツ姿で参列者に応対。「おかみさんがいなかったら林家たい平という落語家はいない」と感謝を伝えた。

 香葉子さんと同い年の高木ブー(92)は車椅子姿で参列。三平さんがザ・ドリフターズの大ファンであったことから家族ぐるみの付き合いがあったことを明かし「まだ駄目だよ、僕の話し相手いなくなっちゃうじゃん。はかないね」と絞り出すように悼んだ。

 ほかに小池百合子都知事(73)や徳光和夫(84)、元小結・遠藤の北陣親方(35)も出席した。会場には明石家さんま(70)や吉永小百合(80)らから供花も届けられた。

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