【小林幸子 我が道22】山古志の「幸子田」から復興米 地震被災地、こども食堂支援

[ 2026年8月23日 07:00 ]

山古志の「幸子田」で稲刈り作業
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 2004年の新潟県中越地震の震源地に近く、震度6強で、最も被害が大きかったのが山古志村(当時)でした。68人が亡くなり全村避難指示が出され、長く隣接する長岡市内の仮設住宅での生活を余儀なくされました。仮設住宅に何度かお邪魔すると、どの家も「早く山古志の家に戻りたい」とおっしゃいました。「戻って何をするの?」と聞くと「米作りたい」と口をそろえていました。「農家が米を作れないなんて、こんな寂しいことはない」という言葉が胸に響きました。

 翌05年に長岡市に編入された山古志は、もともとニシキゴイ養育と闘牛が盛んで、山中の棚田が印象的な日本の原風景が残る地です。地震から2年後の06年、やっと復興に向けて動き始めた頃、長島忠美元村長に「みんなと一緒に私も稲作をしたい」とお願いしました。快諾していただき、村長が所有していた5アールほどの棚田を貸してくださいました。そこを「復興の幸子田」と名付けてくれました。棚田ですから、トラクターなどの農耕機械は入れません。田起こしから水張り、田植え、草取り、刈り取り、はざかけ、脱穀まで、すべてが昔ながらの手作業です。当然、地元の皆さんのご協力なくしては成立しません。しかし毎年、田植えと稲刈りの時季は、友達や後輩のアーティストもお連れして、みんなで田んぼ体験をさせてもらってきました。気が付けば20年を数えました。

 「幸子田」では毎年、8俵(約480キロ)ほどのお米が収穫できます。そのお米を「復興米」として、その後起きた東日本大震災や熊本地震、能登半島地震などの被災地に送らせてもらっています。加えて「こども食堂」も支援させていただいています。

 東日本大震災の後、山古志の皆さんと一緒に岩手へ「復興米」を持って行きました。避難所での炊き出しでは婦人部の皆さんが大活躍されていました。すると、被災された農家の方が「どれぐらいで自宅に戻れましたか?」とか「農作業に戻れるには、どれぐらいかかりましたか?」と山古志から来た彼女たちに真剣に尋ねていました。数年前は被災者だった山古志の方も丁寧に一生懸命、説明してあげていました。つらい同じ境遇を経験したからこそ伝わる、励ます言葉を持っていました。そんな姿を見ていて「人っていいなあ」「人って捨てたもんじゃないなあ」と心底思いました。

 「こども食堂」も最初はどこにあるのかも、どういうことをしているのかも知りませんでした。いろいろ聞いて、シングルマザーや諸事情を抱えて育児している親子の何か役に立てたら、と思うようになりました。1時間でもいいからご飯を作りに行くとか、地域の長老が子供に道徳などの話を聞かせるだけでもいい。広告塔でもいいから、自分ができることをしたいと思うようになりました。せっかくここまで生きて来られたのだから、少し恩返ししたいのです。

 ◇小林 幸子(こばやし・さちこ) 本名・林幸子。1953年(昭28)12月5日生まれ、新潟市出身の72歳。作曲家・古賀政男に見いだされ、64年「ウソツキ鴎」で10歳の時に歌手デビュー。79年「おもいで酒」が200万枚突破の大ヒット。同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞し、紅白歌合戦に初出場。以後34回出場した。最近はニコニコ動画、SNSなどで若い世代やネットユーザーに「ラスボス」として人気を誇る。

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