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”初代ミスタードラゴンズ”西沢道夫 「華」と「人望」と「繊細さ」が同居した永久欠番15のニックネームは「キャベジン」

2026年3月24日 05時45分

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1954年の日本シリーズで安打を放つ西沢道夫


◆中日球団創設90周年企画「V この男あり」第2回
 球団創設90周年を記念し、優勝に貢献した名選手を取り上げる企画「V この男あり」。今回は1954年の日本一に主軸として貢献した西沢道夫だ。初代ミスタードラゴンズとしてファンに愛され、背番号「15」は永久欠番となっている。(文中敬称略)
◆型破りなキャリア
 182センチの長身に端正な顔立ち。グリップが極端に細い特徴的なバットで本塁打連発―。草創期のドラゴンズを引っ張った西沢は公私で華のあるスターだった。長男の和夫(72)は「おやじの交友関係は広くて、東京の自宅にはいろんな人が来てマージャン卓を囲んでいた。おしゃれな人で、洋服屋のテーラーとも親しかった」と振り返る。現役を退いた直後の1960年には映画「四万人の目撃者」に野球選手役で出演している。
 キャリアそのものが型破りだった。35年秋、翌年発足する名古屋軍(ドラゴンズの前身)の入団テストに14歳の若さで参加して合格。戦前、戦中は延長28回を一人で投げきるなど投手として活躍した。ただ、肩、肘を痛めて戦後は野手に転向。球界を代表する打者へのし上がっていく。

1954年日本一の優勝パレードに臨む(左から)西沢道夫、杉下茂、天知俊一監督、服部受弘

 優勝した54年。西鉄との日本シリーズで超人的なエピソードが残っている。中日球場での第1戦の試合後、西沢の乗ったタクシーが電柱に衝突。右手を痛めたが、それを隠して、強行出場した翌日の第2戦で本塁打を放った。野球専門誌では「西沢は細いグリップを痛みもあって軽く握った」と紹介されている。この年、レギュラーシーズンでは打率3割4分1厘、16本塁打でベストナインを獲得。投の杉下茂とともに、両輪となってチームを悲願の頂点へ導いた。
 現役引退後は64年途中から3年半にわたって監督を務めたが、優勝に手が届かなかった。和夫は「豪放磊落(らいらく)なようで、繊細なところがあった。監督時代に記者から付けられたあだ名が『キャベジン』。胃をやられて薬を飲んでいたんですよ」と証言する。西沢監督のもと外野手としてプレーした法元英明(91)は、記憶に鮮明に残るシーンをひもといた。
◆優しすぎる一面
 「金田正一さん(国鉄)との打席で西沢監督が代打を告げようとしたから、『打たせてください』と懇願したんです。『金田の球は打てんぞ』と言われたけど、結局そのまま打たせてくれた。そうしたら、ホームランだった」。「キャベジン」の一因は優しすぎることだったのかもしれない。
 試合で敗れると、シーズン中だけ仮住まいしていた名古屋市内のアパートの一室に選手がわざわざ来て「監督、申し訳ありません」と謝罪することもあった。人望が厚かった。
 1970年に脳血栓で倒れ、車いすでの生活を余儀なくされた。「運命として受け入れるまでは時間がかかったんじゃないかな」と和夫。内心に葛藤を秘めながら、それでも表面上は笑顔を絶やさなかったという。
 野球殿堂入りした77年に、56歳の若さで死去した。永久欠番となった西沢の背番号「15」は今でも和夫の愛車のナンバーとして、家族に大切にされている。

1954年日本シリーズのウイニングボール

◇本当なら球団が飾っていないといけないもの!?~お宝発見~
 西沢が最期を過ごした東京都日野市の自宅の一角は今、和夫によってちょっとした“ミュージアム”になっている。数々の記念品、解説者時代のノートなどが展示されており、中でも貴重な逸品が、中日が日本一となった1954年日本シリーズの「ウイニングボール」だ。
 和夫が「本来なら僕らが持っているものじゃなく、球団が飾っておくくらいのもの」と苦笑するボールには、西沢らVメンバーのサインが入り、「日本シリーズ第7回戦 ウイニング・ボール 於中日スタジアム」と記されている。
 後に永久欠番となった背番号「15」のユニホームもあり、往事の西沢をしのばせる。

父が着用した背番号「15」のユニホームを掲げる和夫さん


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