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【福田正博 我が道11】海外で衝撃“サッカーは強い” 中大2年時に日本代表のB代表に初選出

[ 2026年7月11日 07:00 ]

アルゼンチン遠征で食卓を囲んで(右から3人目が私)
Photo By 提供写真

 中央大学2年生の夏前だった。日本代表のB代表にあたるジュニア代表に初めて選ばれた。1年生のときの活躍が評価されたのだが、私はユースなど年代別の代表に選ばれたことがなかったので、とてもうれしかった。7月17日から8月7日までアルゼンチンとブラジルに遠征し、5試合で1勝1分け3敗。山口芳忠さんが監督で、次世代のA代表候補や大学生で編成され、10代は私と1学年下の井原正巳、中山雅史だけだった。

 私は海外に行くのが初めてで、パスポートもこのとき初めて作った。飛行機にも乗ったことがなく、先輩に「暑かったら乗務員さんを呼んで、窓を開けてもらえ」などといじられた。ロサンゼルスとリオデジャネイロで乗り継ぎ、約30時間かけてブエノスアイレスに着いた。

 物凄く緊張した。スタジアムでリーグ戦の前座として試合をしたかと思えば、銀行のグラウンドで地元のアマチュアチームとの対戦もあった。アルゼンチンリーグの試合も見たが、大きなショックを受けた。激しく、うまい下手より戦いだった。序盤で2人ずつ退場者が出て、9人対9人でやっていた試合もあり、「今までやっていたのとは別のスポーツ」と思えたぐらいだった。一番の思い出は、ジュニア代表には用具係はいないので、ブエノスアイレスでは井原と中山が洗濯係、私も手伝った。当時のユニホームは乾燥機にかけると縮むことがあったので、洗い終わると各自が自室で干した。

 ちょうど86年W杯メキシコ大会でアルゼンチンが優勝した直後で、スペイン語が分からなくても、「マラドーナ」と言えば、みんなが盛り上がった。アルゼンチンサッカー協会に行った時にW杯のレプリカが飾ってあり、写真を撮った記憶がある。このときの経験は、その後の選手生活の大きな刺激となった。

 中央大学に戻ると、私自身は調子が良かったが、チームはあまり結果が出せず、8校中6位だった。7、8位が入れ替え戦に回るのでギリギリ。これまで中央大学は関東大学リーグ1部から降格したことがないのが誇りで、OBから今までにないほどのプレッシャーを感じながら戦った記憶がある。3年生のときは5位、4年生のときはキャプテンだったので、「初めて落とした」と言われないようにピリピリし、6位で残留が決まったときはホッとした。さらに別のプレッシャーもあった。関東大学リーグは11月に終わるが、上位に入ると、1月にインカレがあった。地域大会を勝ち抜けば天皇杯の出場権が得られて、12月に試合があった。名誉なことだし、選手としては目標の一つだが、試合に絡めない選手は「早くオフにならないかな」と、歓迎していなかった。特に4年生は、4月から社会人生活が始まるので、早く引退して、アルバイトをし、遊びに行きたいと考えていた。4、5、6位がちょうどいい。その影響か、天皇杯は1年生のときに一度だけ、インカレも3年生のときに出ただけだったと思う。

 ◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間浦和でコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

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