野口茂樹、バテない自信 NPB最後の「200球投手」単打OK、走者を出してから粘るサウスポーの真骨頂
2026年7月14日 05時45分
球団創設90周年を記念し、優勝に貢献した名選手を取り上げる企画「V この男あり」。開幕11連勝でスタートした1999年、野口茂樹(52)は19勝7敗の好成績でチームを優勝に導いた。ただ、当の本人に相手を牛耳ったイメージはあまりない。203イニング2/3を投げて被安打は202。「何となく勝った」と振り返る一年に、左腕エースの妙味が詰まっていた。(文中敬称略)
アップシューズで飛び出し「スパイクに踏まれまくって痛かった」
1999年9月30日のヤクルト戦(神宮)。ベンチ外だった野口は優勝が決まった瞬間、ベンチ裏からアップシューズで飛び出した。「みんなスパイクなので、胴上げのときに足を踏まれまくって痛かった。そんなことになるなんて思ってもいないでしょ」。Vの喜びは、あの「痛み」とともに記憶されている。
その10日後、野口は同じ神宮のマウンドに立った。ここまで19勝。大台の20勝と最多勝を懸けたシーズン最終戦でも快投したが、0―0の9回、代打馬場にサヨナラ内野安打を許した。「19と20じゃえらい違う。今となってはね」と笑う。
注目はその投球内容だ。被安打は11、四球も7つ与えた。球数は実に152球に達したが、失点は最後の「1」だけ。「元々力でねじ伏せるタイプじゃない。低めに集めることを意識していたから、長打はそんなに打たれなかった。ランナーが出た方が気持ちが入ったということもある」。単打はOK。走者を出してから粘る。野口の真骨頂だった。
19勝も苦しんだ序盤 捕手・中村のアイデアが奏功
このシーズン、野口に好調だったという自覚はない。チームの開幕11連勝を止めるなど、特に4、5月は苦しんだ。「癖が出ているという話もあった」という。球種は主に直球とスライダー。癖を出すまいと神経質にもなっていた。
復調の手助けになったのは捕手の中村のアイデアだ。「シーズン途中から初めて『首を振れ』というサインが出るようになった。相手を考えさせようとね」。元々は一定のテンポで淡々と投げ込むタイプ。意図的にリズムを変えて打者を惑わせた。癖は自然と気にならなくなった。
6月下旬からは破竹の9連勝。野口はエースにふさわしい姿を見せていく。この連勝中は全試合で7イニング以上投げた。野口は振り返る。「終盤になってもバテない自信があった。何と言っても前年の経験があるので」
今も野口の記憶に新しい98年8月30日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)。左腕は延長12回、203球を投げた。「松坂(大輔)君が甲子園で250球(延長17回)投げた年で、星野監督と『おまえも投げられるのか』という話になって。『投げられますよ』と返した。その数日後だった」
闘将の挑発に応えてマウンドを一人で守り抜いた。以降、NPBで200球投げた投手は誰もいない。
ペナントレース大詰めでの2戦連続完封 救援陣休ませた
優勝争い大詰めの9月21日の広島戦(ナゴヤドーム)と28日のヤクルト戦(神宮)では連続完封。宣銅烈、サムソン・リー、岩瀬仁紀、落合英二と強力な救援陣がクローズアップされる中、ずばぬけたスタミナで長いイニングを稼ぐ野口の貢献度は絶大だった。
「この年はみんながヒーローだった。打線にはゴメスがいて、関川さん、山崎さん…。僕はそこに便乗しただけ」。MVPを受賞したあの年から27年。50歳を超えた野口は、勲章を誇るわけでもなく、マウンド上のようにひょうひょうと当時を振り返っていた。
野口が現役時に着用していたユニホームやグラブは、ほとんど手元に残っていないという。「例えばウイニングボールをもらっても、その遠征が終わったら『どれだったっけ』となる。知らない間にキャッチボールで使っちゃったりしている」。メモリアルグッズには極端に無頓着なのだ。引退後も「いろんな人が欲しいというからあげちゃった」と次々と惜しみなく手放した。
その野口が「なぜかこれだけは自宅にある」と紹介したのが、優勝した1999年を含む、97~2001年バージョンのユニホーム。「ほらね。『HARD PLAY HARD』と(肩口に)ある」。少しだけ懐かしそうに、当時のスローガンを口にした。
1999年MVP 最優秀防御率2回、最多奪三振1回
▼野口茂樹(のぐち・しげき)1974年5月13日生まれ、愛媛県西条市出身。投手。左投げ左打ち。愛媛・丹原高からドラフト3位で93年に中日入り。96年8月11日の巨人戦(東京ドーム)でノーヒットノーラン。99年は自己最多の19勝(7敗)でMVPを獲得した。2006年に巨人へFA移籍し、08年限りで退団した。通算81勝79敗、防御率3・69。主なタイトルは最優秀防御率(98、01年)、最多奪三振(01年)。
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