特攻出撃も不時着、祖父が命つないだ南の孤島 通夜の晩「黒島の者です」突然の来訪者が語る過去
2026年9月3日 05時10分 (9月6日 14時56分更新)
東京都板橋区の前田朋毅(ともき)さん(35)は映画の広報マンとして、今年公開された映像作品の販促イベントなどに忙しく駆け回っている。早稲田大を卒業後、大手百貨店に勤めたが、映画の業界に飛び込んで10年余り。安定を捨て、夢を追った転職の陰には、旧海軍の2等飛行兵曹として16歳で特攻に出撃した祖父、長明さんの存在がある。
【連載】16歳の神風
終戦から81年がたち、戦争の体験者が少なくなってきた。記憶の継承が困難になる中、本紙は読者から寄せられた手記を基に戦争の実相を探る取材を続けている。今回は名古屋市出身の特攻隊員、故前田長明(ながあき)さんの家族による手記から、16歳の少年が背負った過酷な任務や葛藤を3回にわたって紹介する。
(1)特攻出撃も不時着、祖父が命つないだ南の孤島 通夜の晩「黒島の者です」突然の来訪者が語る過去(この記事)
(2)あどけなさ残る「軍神」、島民と交流 膝枕の上で揺らぐ心
(3)特攻できず「悔しい」と泣いた 16歳の心に終生刻まれた「かせ」
長明さんは名古屋市昭和区出身。朋毅さんの実家から車で10分余りの家に住んでいた。晩年は書や絵画をたしなむ「優しいおじいちゃん」のイメージだった。83歳で亡くなった2012年2月の通夜の晩までは。
「黒島の者です」。雨の夜更け、大勢の弔問客が帰った後、喪服姿の男性が1人、長明さん宅に訪ねてきた。クロシマ? 朋毅さんは突然の来訪に戸惑い、家の中にいた両親を呼んだ。
1945年5月、海軍の特攻隊「正気隊(せいきたい)」に所属していた長明さんは電信員として上官の機長、操縦士の3人で九七式艦上攻撃機に乗り込み、同県の串良(くしら)基地を出発。沖縄周辺に展開する米艦隊を目がけて飛行したが、エンジン不調で海に不時着した。近くの黒島に泳ぎ着き、島民の世話を受けて生き延びた。
宮田さんは、黒島で長明さんと交流した当時18歳の宮田サダさん(2022年に95歳で死去)の孫。島で伝え聞いたエピソードを昨日のことのように話した。「本当にそんなことがあったの?」。朋毅さんは思わず家族と顔を見合わせた。
朋毅さんは大学3年で就職活動を始める時期だったが、将来に悩んでいた。面接に向け「自分の強みは」と自問してもよく分からない。1年留年し、「自分のルーツを確かめておきたい」と、祖父が滞在した黒島を訪れる。22歳だった。
鹿児島港を出て船に揺られること6時間。到着すると、島民から「ようやく前田少年が帰ってきた」「あぁ、前田さんにそっくりや」と熱い歓迎を受けた。
不時着した海域が見える岬に立った。波は高く、岸は断崖絶壁だった。「よく泳ぎ着けたな」と息をのんだ。長明さんが生き延びた結果、父が生まれ、自分が存在する。そのことが奇跡に思えた。
朋毅さんは、兵士と島民が培った温かいつながりにも感銘を受けた。長明さんら3人は無防備な離島の警備を買って出た。島民は貴重な米飯を振るまい、自らはサツマイモや、クズの根からつくった団子を食べた。兵士は島への感謝を忘れず、機長は戦後、何度も島を訪れた。だが、長明さんは一度も訪れていない。
朋毅さんは黒島を訪れた翌年、百貨店に就職した。販売員として働いていたころ、特攻隊員や黒島の島民と交流のある女性と知り合った。女性は黒島で起きたことを映画にしようと模索していた。朋毅さんは女性を東京新聞(中日新聞東京本社)に紹介し、記事が掲載されることがあった。
その後、夢だった映画の配給会社の採用面接を受けた。新聞社に映画の企画を持ち込んだ経緯を話すと評価され、採用に至った。「おじいちゃんが応援してくれたのかな」と感じた。
ただ、長明さんに関してふに落ちない点もある。なぜ黒島での体験を家族に語らなかったのか。戦後、なぜ黒島を訪れようとしなかったのか。祖父の心はベールに包まれたままだ。
黒島で何があったのか、記者も現地を訪ねた。
特攻 旧日本軍の「特別攻撃」の略称。爆弾と一緒に突入するなど兵士の死を前提とした。近代国家で組織的に続けた例は他にないとされる。航空機による「神風特別攻撃隊」が有名。ボートなど多様な手段があった。迎撃されて攻撃目標にたどり着けない例も多かった。国に特攻死と認められていない特攻出撃による死者などを含めると1万2千人以上が戦死したとされる。
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