【馬淵史郎 我が道7】人生変えた三瓶高での出会い 松山商に憧れも…親から猛反対

[ 2026年3月7日 07:00 ]

三瓶高進学前に野球仲間たちと(左から3人目が筆者)
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 松山商を必死に応援したよ。69年(昭44)夏の甲子園決勝。松山商の相手は青森代表の三沢。愛媛・八幡浜の中2だった自分もテレビの前で熱くなっていた。スコアボードにずっと0が並ぶ。1点を取るために、甲子園で必死の攻防が続いた。延長18回引き分けで再試合。名勝負だったな。

 太田幸司がスターになった試合だったが、こっちはもちろん松山商派。投手・井上明、捕手・大森光生、4番・三塁が谷岡潔…。メンバーは今でも頭に入っている。自分も甲子園に行きたい。一色俊作監督の下で野球をやりたい。その思いを強くさせた試合だった。松山商の校歌もよく歌っていた。

 中3のときに父・正夫の異動で、大島中から三瓶東中に転校した。初めて野球部に所属して、松山商への憧れは増した。ところが親に猛反対された。「高校から家を出るもんじゃない」「小さい体で松山商で野球をやるのは無理や」と頑(かたく)なだった。三日三晩泣いたな。

 思いを引きずりながら進学したのが県立三瓶高。ここで野球部に入った。1年の夏から遊撃でレギュラーになって準々決勝まで行った。甲子園は夢みたいなところだけど、ひょっとしたら行けるかも、と思ったけど、現実は厳しかった。3年の夏も2回戦で敗戦。でも高校野球ってのは楽しかったし、自分の原点だと今も思う。当時は八幡浜工の同じ遊撃に南海に入る河埜敬幸がいた。投手ではやはり南海で活躍した南宇和の藤田学。藤田には練習試合で完全試合をされたことも覚えている。カーブがとにかく良くて、狙っても当たらなかった。

 学校では体は小さいけど、負けん気は人一倍だった。何か事件があるところに自分がいた。だから「事起こしの史郎」と周りから呼ばれた。大人になっても「事起こし」の人生になるとはね。

 話は飛ぶけど、三瓶高は今はもうなくなってしまった。これも過疎化と少子化の影響なんだろう。20年に宇和高三瓶分校となり、24年度に廃校となった。最後に明徳義塾のチームを連れて、送別試合を企画した。母校で監督という夢も実はあった。関係者もいろいろ動いて、具体化しそうな時期もあったけど、かなわなかったな。

 三瓶高で一番大きかったのは、恩師と呼べる人との出会いだ。3年夏が終わってから、野球部監督に就任されたのが田内逸明さん。松山北OBで松山聖陵、南宇和で監督をされていた。田内さんに野球のイロハを教わった。「弱いもんが強いもんに勝てるのが野球。作戦というのはそのためのもんや」ということを教わった。

 もう現役は退いていたけど、田内さんの話が聞きたくて、コーチ見習いで練習の手伝いもした。この出会い、そして田内さんの人脈が、自分の人生に凄く大きな影響を与えることになる。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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