2004年17勝のエース・川上憲伸、忘れえぬ4月の1イニング6失点KO ライバルGT打倒しタイトル総なめ
2026年8月25日 05時45分
球団創設90周年を記念し、優勝に貢献した名選手を取り上げる企画「V この男あり」。今回は2004年にエースとして17勝を挙げ、チームを優勝に導いた川上憲伸(51)だ。原動力になったのはシーズン序盤の「1イニングKO」。衝撃的な敗戦を糧にして勝ち星を重ね、夏場以降は落合博満監督からライバルの巨人、阪神の打倒を託され、見事に応えた。(文中敬称略)
アクシデントもなく『1イニング』「精神的にくるものがあった」
2004年4月25日の夜、川上は名古屋へ戻る特急で一人ぼんやりと窓の外を眺めていた。「オレは何をやっているんだ…」。その日、川上は金沢でヤクルトとのデーゲームに先発し、1イニング6失点で壮絶なKOを食らっていた。
「地方球場のマウンドが合わなかったというのはあるにせよ、アクシデントも何もなくの『1イニング』ですから。精神的にくるものがありました。あの時の情けなさは、忘れられない」。名古屋に着くまで、繰り返し自分を責めた。
このシーズンに懸ける思いがあった。前年の03年は右肩痛の影響でわずか8試合の登板、4勝3敗の低調な成績に終わっている。「チームは上位にいけず(最終盤に勝ちを重ねて2位)、山田(久志)監督も退任になってしまった。その一番の理由は自分じゃないか。プロ野球選手になって初めて『自分のせいでこうなった』と思った。04年は絶対に同じ失敗はしない」
オフの間は、右肩のケアやトレーニングに費やした。新たに就任した落合博満監督がキャンプイン当日の2月1日に異例の紅白戦を組み込むと、故障明けにもかかわらず、いきなり140キロ台後半の直球を投げ込んで周囲を驚かせた。初登板となった4月3日の広島戦(ナゴヤドーム)で延長11回を一人で投げきるなど、開幕3連勝で快調にスタートを切った。それなのに…。
13K完封&決勝弾! 独り舞台の『憲伸劇場』
「1イニングKO」のショックは、川上を変えていく。「全部完投する。それくらいの気持ちで投げていました」。次戦から2試合連続で8イニング以上を投げると、ハイライトは5月15日の横浜戦(ナゴヤドーム)。13奪三振完封に加え、打ってもマレンから決勝の2ラン。まさに独り舞台の活躍だった。「変化球を狙って、一振りで決めようと思っていた」。チームを背負う、自他共に認めるエースの姿だった。
優勝争いが過熱していく7月半ば。川上はナゴヤドームの監督室に呼ばれた。落合監督は口を開いた。「優勝するには巨人、阪神に勝っていかないといけない。ここから先、おまえが巨人、阪神に向かっていくためのローテーションを考えてみろ」。エース右腕をGT打倒に集中させるための、異例の“作戦会議”だった。
シーズン後半に落合監督が託した『GT打倒』
川上は指揮官の信頼に100%応えた。7月19日の巨人戦(ナゴヤドーム)を皮切りに、9月半ばまでに登板した9試合のうち実に8試合を巨人と阪神が占め、負けなしの6勝。「きつかったですよ。相手が強いので。何とかチームを勝たせる。その一心でした」。直接対決で圧倒した川上の活躍で、優勝争いの行方が定まった。
17勝7敗でシーズンを終え、最多勝に加えMVP、沢村賞とタイトルをほぼ総なめにした。「この年は、それまでと違って黙々と野球をやるだけの年ではなかった。対戦相手はもちろん、チーム状況、どういう勝ち方をしなきゃいけないとか、いろんなことを考えながらマウンドに立ってました。それも、あの『1イニング』があったからです」。常勝を誇った落合政権下、川上は09年のメジャー挑戦まで不動の幹であり続けた。
大舞台に燃える男 背番号11の真骨頂
〇…川上は、3勝4敗で敗れた西武との日本シリーズでもエースらしい投球を見せた。本拠地での第1戦は敗れはしたものの、7イニング2失点と好投。西武ドームでの第5戦は8イニングを1失点に抑え、勝利投手となった。「第4戦は山井がスライダーで抑えていたので、第5戦では急きょスライダーを多投したんですよ。それが本当にはまった」。得意のカットボールを減らしてスライダーを増やす、臨機応変の配球で強力打線を抑え込んだ。「そういう“イベント”に強いのは僕の特徴かもしれない。開幕戦とかクライマックスシリーズ(CS)、日本シリーズとか。絶対に試合をつくるという執念があった」。注目されるほど燃える。背番号11の真骨頂だった。
2004年MVP・沢村賞・最多勝 代名詞はカットボール
▼川上憲伸(かわかみ・けんしん)1975年6月22日生まれ、徳島市出身の51歳。投手。右投げ右打ち。徳島商、明大を経てドラフト1位で98年に中日入り。1年目に14勝6敗で新人王。2002年8月1日の巨人戦(東京ドーム)ではノーヒットノーランを達成。04年は17勝7敗で優勝に貢献し、MVP、沢村賞を獲得。09年に海外FA権を行使して米ブレーブスへ移籍。12年に中日へ復帰。主なタイトルは最多勝(04、06年)、最多奪三振(06年)。日米通算125勝98敗、防御率3・37。代名詞はカットボール。
関連キーワード
おすすめ情報


