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【福田正博 我が道4】転校先でサッカーに出合った 担任から熱心に誘われ

[ 2026年7月4日 07:00 ]

まだ野球のユニホームにスタジャン姿ですね
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 私の人生で最初の転機となったのが、神奈川県茅ケ崎市への引っ越し。1977年(昭52)10月、小学5年生の2学期だった。茅ケ崎市と藤沢市にまたがる広大な分譲地の一戸建て。私の家は茅ケ崎市で、私が引っ越しした頃はまだ周囲は空き地ばかりだった。それでも、急速な人口増加に茅ケ崎市の対応が追いつかず、私は藤沢市立大庭小学校に通うことになった。野球を続けたかったので、週末は片道1時間以上かけて十日市場に通った。新居の近くにも野球チームはあったはずだが、私は人見知りするので、なじみのある十日市場がよかったのだ。

 ある日、担任の田中立穂先生から「土、日曜日以外はサッカーをやらないか。もったいないぞ」と誘われた。給食をよく食べていたので「太るぞ」とも言われた。それまでサッカーをやったことがなかったし、興味もなかったので断った。だが、何度も誘われたので、1カ月ぐらいたって「そこまで言うなら、一度やってみよう」と、田中先生が顧問の大庭FCの練習に参加した。やってみたらサッカーは楽しく、すぐにひきこまれた。

 最初は運動靴で練習していた。サッカーを始めて1週間ぐらいの11月26日に藤沢市少年リーグ戦第4ブロック第4戦の藤沢小学校戦があり、私はFWで先発出場した。試合前に田中先生から「点を取ったらスパイクをあげる」と言われたからではないが、いきなり2点取って2―0で勝利。まだルールも理解できず、試合中にチームメートに「そこはオフサイドだ」と言われても、何のことだか分からなかったほどだ。数日後、授業が終わったところで、田中先生が教壇の一番下の引き出しからスパイクを出し、「約束だから」と私にくれた。この大会6試合に出場して8得点、チームも7勝1分け1敗で優勝した。

 それから毎日、公園で壁に向かってボールを蹴ったり、姉が知人からもらってきた雑種犬のジョンを相手にドリブルの練習をした。ベッドの上でオーバーヘッドキックの練習をして、ベッドの底が抜けたこともあった。母に言えないので、下に本を積みあげて“補修”して使っていたが、母は気付いていたと思う。

 田中先生は、私が元気が良く、運動能力も高く、よく食べることから、サッカーに向いていると感じたのだろう。私自身も足が速いのが特長だが、野球は塁に出たときや外野を守るときぐらいしか足を生かす場面がない。その点サッカーは試合中フルに足を生かせた。もう一つは私が少しへそ曲がりで、言われたことはやりたくない性格だったこと。野球は一球ごとにベンチからサインが出るが、サッカーは試合が始まれば監督の指示はほとんど聞こえず、選手が自分で判断してやるしかない。私にはサッカーの方が合っていた。これも運。茅ケ崎に転居しなかったら、田中先生と出会うこともなかったし、なかば強引に誘われなければサッカーを始めることもなかった。

 ◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間で浦和のコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

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