×

【福田正博 我が道8】おかしい…徒歩5分のバス停まで行くのも息切れ

[ 2026年7月8日 07:00 ]

高校2年の時、体調がすぐれない時期があった(中央が私)
Photo By 提供写真

 高校選手権出場を目指して相模工業大学付属高校に入学したが、神奈川県は想像以上に強豪校が多かった。入学してすぐにFWのレギュラーになったが、この年は関東大会も高校総体も、高校選手権も県大会を勝ち抜くことはできなかった。年が明けて代が替わり、1月の新人戦で神奈川県初優勝。2年生になり、6月の関東大会に出場、準決勝で武南(埼玉)に0―1で敗れたが、4強入りした。ここまでは順調だったが、夏の高校総体は4校で行う決勝リーグに進出したものの1勝1分け1敗で3位、全国大会には届かなかった。

 6月の関東大会の頃から体調がすぐれず、顔色も悪かった。2学期になると、登校しようと自宅から徒歩5分のバス停まで行くのも息切れする。自分でも「これは大変だ」と感じた。母も「病院に行きたいというぐらいだから、相当悪いんだと思った」という。母と病院に行き、検査を受けたところ、赤血球が通常の半分しかなく、貧血を起こしていた。スパイクを履いて走る衝撃で、足の裏で血小板が壊れ、血流が悪くなり、赤血球が減って酸素が運ばれなくなる。スポーツ選手によく見られる症状だという。入院はしなくて済んだが、最初の10日間は毎日通院して増血剤を注射し、その後は薬を飲んで赤血球が増えるのを待った。学校には行ったが、サッカーの練習はできない。国体の神奈川県選抜候補にも選ばれていたが辞退、復帰まで約2カ月間かかった。余談だが、増血剤を飲んでいた時は、体が楽になって疲れ知らずになり、走ってみるとスピードが出るように感じた。薬を飲むのをやめると元に戻ったが、ドーピングのことがよく分かった。

 秋の高校選手権県大会には間に合ったが、決勝で鎌倉高校に0―1で敗れた。雨の三ツ沢球技場でピッチも悪く、思ったプレーができなかった。鎌倉高校の決勝点を決めたのはのちに浦和で一緒になる1年生のFW堀孝史だった。高校選手権を逃したことは悔しかったが、もう1年あったし、いい選手がそろっていたので、気持ちを切り替えた。3年生になると、私はキャプテンを任されて、「今年こそは」と、より気持ちも入っていた。

 その頃、西ドイツに留学する話があった。相模工業大学付属高校の卒業生で西ドイツのブレーメンで活躍していた奥寺康彦さんが年に一度、オフで帰国した時、学校に来てくれた。凄い体をしていて、「プロでやるには、あれぐらいにならないと駄目なんだ」と驚いた。その奥寺さんのつてで、「西ドイツへ2~3週間留学しないか」という誘いだった。3年生になる春休みを利用し、現地で奥寺さんが面倒を見てくれるというありがたいもの。だが、このときすねを打撲し、患部が炎症を起こして膿(うみ)がたまり、切開して出す手術を受けたばかりだった。私は時々こうなることがあり、通院中で、西ドイツへ行っても練習できない可能性もあったので、実現しなかった。

 ◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間浦和でコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

続きを表示

この記事のフォト

「サッカーコラム」特集記事

「日本代表(侍ブルー)」特集記事

サッカーの2026年7月8日のニュース

タグ内の最下位に記述をオススメします ここから-->