【奥野史子 我が道14】後にも先にも夫が私の前で涙を見せたのはあの時一度だけ

[ 2026年9月15日 07:00 ]

日本選手権のデュエットは小谷さん(右)とのペアで優勝しました
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 バルセロナ五輪の代表に決まった時、家族はみんな大喜びしてくれました。ただ五輪の開催期間がちょうど8月のお盆の時期と重なっていたので、古風な母は「毎年やっていることをやらないでオリンピックに行ったらきっとバチが当たる」と言って早々に現地には行かないことを決めました。父も京都に残ることになり、現地には一番上の姉と母の妹のおばさんが応援に来てくれることになりました。もちろん、夫の朝原も凄く喜んでくれましたよ。

 代表決定後、最初の試合となった5月の日本選手権には小谷さんの素敵な演技に負けない私らしい魅力、力強さを評価してもらえるような演技をしなくてはいけないと思って臨みました。1年休んでいた小谷さんがどんな演技をしてどんな評価をされるのか。もちろんそれも気にはなりましたが、この時は世界女王のシルビー・フレシェット(カナダ)がソロにオープン参加していたので、とにかく「シルビーに勝つ」ということが一番の目標でした。

 でも、やはりシルビーは強かった。結果はシルビーが1位で私が2位。小谷さんは3位でした。全然記憶にはないのですが、この時私は泣いて悔しがったようなので、それこそが本気でシルビーに勝ちにいった何よりの証明だと思います。デュエットは小谷さんとのペアで優勝しました。

 日本選手権が終わると、五輪本番までいよいよあと3カ月。合宿地の日本サイクルスポーツセンター(静岡)に入った時のことは今でも鮮明に覚えています。合宿所の「サイテル」に全員が集合した時、小谷さんは私と目も合わせてくれませんでした。ソロは私が代表に決まり、残るデュエットに出場できるのは高山さんも含めて3人のうち2人だけ。凄くピリピリした雰囲気でした。

 その頃、夫の朝原も私と同じようにやはりバルセロナ五輪を目指していました。陸上の最終選考会は6月の日本選手権でしたが、当時の彼はケガが多くて残念ながら代表には選ばれませんでした。

 私が先に代表切符を手にしていたこともあって「一緒に行こうね」と約束していたのに、自分だけが行けなかった。本当に悔しかったのだと思います。後にも先にも彼が「悔しい」と私の前で涙を見せたのはあの時一度だけです。

 でも彼は高校から陸上を始めたばかりでいきなりインターハイで優勝。小学1年でシンクロを始めてからずっと練習漬けの毎日を送ってきて、やっとここまでたどり着いた私よりもはるかにポテンシャルがあることは分かっていました。

 だから、今回は私が出るけど、この人はこの先もっと凄い人になると確信していました。実際に翌年の93年に彼は100メートルの日本新記録を出しているので、いい意味で火が付いたのかもしれませんね。

 ◇奥野 史子(おくの・ふみこ)1972年(昭47)4月14日生まれ、京都市出身の54歳。6歳から「京都踏水会」でシンクロを始め、同志社大2年の時に出場した92年バルセロナ五輪のソロとデュエットでともに銅メダルを獲得。94年世界選手権では「笑わないシンクロ」で史上初の芸術点オール10点満点を記録した。引退後は日本人で初めてシルク・ドゥ・ソレイユに出演。02年に陸上の朝原宣治と結婚した。

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