【奥野史子 我が道26】彼の最後の五輪を見届けたい…急きょ北京行きを決断

[ 2026年9月27日 07:00 ]

長女と一緒に夫の最後の五輪をしっかり見届けました
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 大事なレースの前に娘が病気になってしまい、もし主人が動揺して北京に行けなかったら…。五輪代表選考会を兼ねた6月28日の日本選手権は、病室で娘と一緒に祈るような気持ちでテレビの画面を見つめました。でも、そんな心配は彼には無用でした。全く動揺を感じさせないいつもと同じ淡々とした表情でスタートすると、見事に2位でゴールして北京行きを決めてくれました。

 私たち家族にとっても最後のオリンピックとなる北京五輪男子100メートルは、それから2カ月後の8月15日に行われました。本来なら子供2人を連れて現地でパパの応援をするつもりでいましたが、娘の病気のこともあって私は京都に残り、友人の家でライブビューイングのような形で家族や応援してくれる人たちと一緒に見守りました。

 1次予選は無事に通過。しかし夜の2次予選は10秒37の7位で、残念ながら準決勝に進むことはできませんでした。画面の中の彼は相変わらず淡々とした表情で電光掲示板のタイムと順位を確認していました。私はリアルに「これで終わりなんだな」という気持ちが込み上げてきました。本当にこれが最後の最後…。そう思うと、残るリレーを見逃したら一生後悔するんじゃないかと居ても立ってもいられなくなってきたのです。

 「やっぱり目の前で彼の最後のレースを見届けたい。娘にも見せてやりたい」。急きょ北京行きを決断すると、まず娘の主治医に相談しました。先生は反対するどころか「大丈夫。行ってあげなあかん」と逆に私の背中を押してくれました。それからが大変でした。競技場のチケットはもちろん、ホテルも航空券も何の手配もしていなかったので、あちこち電話をかけまくりました。知り合いのTBSの方も私のわがままなお願いを聞いて奔走してくださり、リレーの予選が行われる前日までに何とかすべての準備を整えることができました。

 個人種目の100メートルから6日後の8月21日。当日の午後に慌ただしく関空を飛び立ちました。夕方に無事北京に到着するとそのままホテルにチェックインし、荷物を置いてから娘と一緒に試合会場に向かいました。

 まだ夜のレースまでは少し時間がありました。お互いアスリート同士で彼の動きは何となく分かるので、「今頃はアップしている頃かな」と思い、サブトラックまで行ってみました。周囲が柵で外からは見えないようになっていたので「ちょっとのぞいてごらん」と娘を肩車すると、娘はすぐに「パパがいる!」と言って「パパ、パパ!」と叫び始めました。実は彼には私たちが現地に行くことは何も伝えていなかったのです。パパは驚いたのなんの、後で聞いたら「どこかで娘の幻聴が聞こえる」と思ったそうです。すっかり驚かせてしまいましたが、レース前に家族で再会できて彼もきっと心強かったと思います。

 ◇奥野 史子(おくの・ふみこ)1972年(昭47)4月14日生まれ、京都市出身の54歳。6歳から「京都踏水会」でシンクロを始め、同志社大2年の時に出場した92年バルセロナ五輪のソロとデュエットでともに銅メダルを獲得。94年世界選手権では「笑わないシンクロ」で史上初の芸術点オール10点満点を記録した。引退後は日本人で初めてシルク・ドゥ・ソレイユに出演。02年に陸上の朝原宣治と結婚した。

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