有本義明さん死去 95歳 センバツ準V腕、新聞記者から異例の転身、ダイエー2軍監督務める

[ 2026年9月4日 05:30 ]

93年、ダイエー高知キャンプで根本監督(右)と話す2軍監督時代の有本さん
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 スポーツニッポン新聞社特別編集委員で、1993年から3年間ダイエー(現ソフトバンク)2軍監督を務めた有本義明(ありもと・よしあき)さんが8月31日に死去した。兵庫県芦屋市出身。95歳だった。芦屋(兵庫)では投手として49年選抜で準優勝。慶大では内野手として活躍した。野球記者として長嶋茂雄さんらと幅広い交流を持ち、長く健筆を振るった。葬儀は3日に親族で執り行われた。

 有本さんは生涯記者で生涯野球人だった。芦屋中、高(兵庫)では「小さな大投手」として49年選抜準優勝など4度の甲子園大会に出場。慶大では二塁手に転向し、53年には主将も務めた。

 54年にスポニチに入社。野球担当を務め、62年6月に法大のハワイ遠征に特派員で同行した際には交流のあった阪神・藤本定義監督から「外国人投手の力量を確かめ報告してほしい」と頼まれ、ホノルル郊外の原っぱで視察した。後に通算100勝を挙げるジーン・バッキーだった。入団テストのため7月に単身来日した際は羽田空港で出迎え。特ダネを記事にせず、信頼に応えた逸話も残る。

 運動部長を務めた後、プロ野球経験がないにもかかわらず、93年にダイエーの2軍監督に就任した。西武フロントだった“寝業師”根本陸夫さんがダイエー監督に就任。親交が深く「俺を手伝ってくれ」と要請された。異例の転身。「野球選手の寿命は短いし、時間はあるようでないんだと訴えていきたい」と指導方針を示し、罰金制度の見直しなど記者らしい発想で改革に挑んだ。

 95年限りで退団後はスポニチでコラムなどを担当。ラジオ日本でプロ野球中継の解説も担当した。晩年までプロ野球取材のIDパスを手元に置き、毎日紙面をチェックするのが日課だった。都内で営まれた葬儀には、ソフトバンク・王貞治球団会長、城島健司CBOからの供花が飾られ、背番号71のダイエー2軍監督時代のジャンパーとユニホームに包まれた棺で静かに旅立った。

 ◇有本 義明(ありもと・よしあき)1931年(昭6)6月1日生まれ、兵庫県芦屋市出身。芦屋中、高でエースとして甲子園に4度出場。1メートル65で「小さな大投手」の異名を取って49年選抜で準優勝、夏は8強入りした。慶大では二塁手で4年春秋に年間無失策記録を達成。54年スポーツニッポン新聞社入社。運動部長を経て野球評論家となり、93年にダイエー2軍監督に就任。95年まで3年間指揮した。

 ≪プロ野球経験なしで新聞記者からは2人目≫プロ野球経験がないまま2軍監督を務めた例では、21年の日本ハム原田豊2軍監督がいる。東海大で巨人・原辰徳元監督と同期で社会人の協和発酵(現協和キリン)監督、柳井高(山口)監督を経て14年に日本ハムスカウトに就任。19年から2軍総合コーチを務めていた。新聞記者からの2軍監督就任は極めてまれで、68年にサンケイアトムズ(現ヤクルト)2軍監督に就任した田口周氏は日大三(東京)監督からスポーツ紙記者を経ての転身。その後はフロント入りし、スカウト部長、球団代表、球団社長を務めた。有本さんは田口氏以来2人目の新聞記者からの2軍監督就任だった。

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