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【福田正博 我が道29】チームのため身を引いてくれ 悩んだ末に井原正巳と一緒に引退

[ 2026年7月30日 07:00 ]

浦和の監督になったオフトさんと話し合う
Photo By スポニチ

 J2での戦いはケガもあって思うようにいかなかった。他チームへの移籍を考える選手もいたが、私はJ2降格の責任を感じ、「J1に上げなければ」という思いだった。この年は11チームが4回戦総当たりで戦った。J2を侮っていたわけではないが、想像以上に厳しい戦いだった。1巡目は勝てても、2巡目は相手も対策を取ってくる。しかも、浦和はJ2では格上とみられ、相手は全力で向かってきた。受けて立って勝てるほどの力はなく、焦りが生まれる悪循環だった。J2はこの年、札幌、山形、仙台、大分、鳥栖など地方に本拠地を置くチームが多く、アウェーは移動も大変だった。私は「1年でJ1に上がれなかったら引退しよう」と真剣に考えていた。33歳になっていたし、チームも若返りが進み、私の立ち位置も変わっていたからだ。J2でさらに1年間戦う気力はなかった。

 最終戦は駒場競技場での鳥栖戦。後半19分に浦和のDF室井市衛がPKを与えて退場になった。このPKを決められてリードされたら浦和のJ1昇格は厳しくなるところだったが、相手が外してくれた。1―1のまま延長に入り、前半5分に土橋正樹がVゴール。大分を勝ち点で1上回って2位になり、J1昇格を決めた。私はJ1に昇格できたので現役を続けることにした。前年のJ2降格は同勝ち点の得失点差1、この年のJ1昇格は勝ち点1差。1年間戦った末に、わずかな差で自分やクラブの運命が決まる、サッカーの難しさだった。

 J1に復帰したものの、厳しいシーズンになった。ブラジル人のチッタ監督が就任したが、出場機会は少なかった。夏にピッタ監督に代わったが、状況は変わらない。日本代表で一緒だったDF井原正巳が加入したのは心強かったが、若返りが進み、30歳代の選手があまりいなくなって孤立感も感じていた。引退を考えていることを森孝慈GMにも伝えていたが、シーズンが終わる頃、「来季はオフトがやるので、もう1年やらないか」と言われ、現役を続けることにした。

 02年は今度こそラストイヤーと覚悟を持って臨んでいた。オフト監督には「最後の年は、しっかりコンディションを整えて、いいシーズンにしよう」と言われた。開幕からFWで出場したが、なかなか点が取れず、途中から右MFやボランチで起用された。CBも試されたが、これは無理だった。ただ、試合に出続けていたので欲が出てきた。シーズン終盤に、オフト監督と引退について話した時に、「ちょっと考えさせてくれ」と本音を口にした。私の起用は引退の花道だったので、オフト監督は少し慌てたようだ。代案として「チームで練習しながら、スカウティングもやらないか」と言われた。しばらくしてオフト監督は「来季、このチームを優勝させたいなら、選手を代えなければいけないポジションが2つある」と言って、私と井原のポジションを挙げた。チームのために身を引けということで、悩んだが受け入れて、井原と一緒に引退した。

 ◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間浦和でコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

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