張本勲さん 反戦訴え続けた被爆者 広島で姉と死別「体験を語れるのは我々の世代が最後」

[ 2026年9月11日 05:15 ]

張本勲さん死去

家族と写真に納まる少年時代の張本さん(左)
Photo By スポニチ

 5歳の時に生まれ育った広島で被爆した張本勲さんは、核兵器や戦争の愚かさを訴え続けた。2022年にロシアが核の脅威をちらつかせながらウクライナへ侵攻した際にも「戦争も核使用も人間のやることではない。悲惨なことはもう二度と起きてくれるな」と厳しい口調で“喝”を食らわした。

 1945年8月6日の朝、友達と遊ぼうと家から出た瞬間、ピカーッと閃光(せんこう)が走り、ドーンと爆音がとどろいた。爆心地から2・3キロの距離だった。家が小高い山の陰にあったため、幸いにも放射能の直撃は免れた。家族で近くのブドウ畑に避難したが、勤労奉仕に出た6歳上の長姉は翌日、焼けただれた姿で担架で運ばれてきた。手当てもできず亡くなった。ブドウ畑で嗅いだ焼けた人肉のにおい、あちこちから上がるうめき声は「しっかり覚えている。地獄ですよ」と語っていた。

 プロ野球選手時代は年に1度の健康診断が怖かったという。結果を球団に提出しなければならなかったからだ。原爆症で亡くなった友人もおり、「自分もひょっとしたら」と恐怖は消えなかった。被爆体験は“封印”し、自ら明かすことはなかった。

 現役引退から20年、60歳を超えて考えが変わった。テレビで若いタレントが、原爆が投下された都市を知らないと発言したのを見たことがきっかけだった。「体験を語れるのは我々の世代が最後」だと新聞のインタビューを受け、テレビの報道番組で、あの日自分に何が起きたのかを伝えた。

 広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の原田浩理事長(87)は「野球の活躍だけでなく、非常に大きな仕事を頑張ってくれた」と感謝した。張本さんは亡くなる4日前の今月5日も、被爆に関する新聞の電話取材を受けていた。「武器で殺し合う戦争は絶対にやってはいけない」。そう訴えていた。

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